関ケ原合戦!女性たちの意外な仕事・・・安達です。
今年のゴールデンウィークに岐阜県、滋賀県、福井県を旅行をしてきました。
旅の初日は滋賀県を観光、2日目は福井県を観光。 滋賀県も福井県も見どころが沢山あり、とても楽しかったのですが、今回は最終日に行った岐阜県でのお話を書きたいと思います。
岐阜県では白川郷、飛騨高山、下呂温泉などを巡りました。それから岐阜県は古くから歴史の舞台になることが多い街ということもあり、岐阜城の麓の歴史博物館を見学した後、日本の歴史を語る上で絶対に欠かすことのできない、天下分け目の地 関ケ原にも足を運んで来ました。
旅の初日は滋賀県を観光、2日目は福井県を観光。 滋賀県も福井県も見どころが沢山あり、とても楽しかったのですが、今回は最終日に行った岐阜県でのお話を書きたいと思います。
岐阜県では白川郷、飛騨高山、下呂温泉などを巡りました。それから岐阜県は古くから歴史の舞台になることが多い街ということもあり、岐阜城の麓の歴史博物館を見学した後、日本の歴史を語る上で絶対に欠かすことのできない、天下分け目の地 関ケ原にも足を運んで来ました。
関ケ原町の歴史民俗資料館には、関ケ原合戦に関する資料が沢山展示されています。
またそこで地図をもらうと、実際の合戦跡地を自分たちで巡ることもできます。
東軍・西軍の各武将たちの陣地跡地には、石碑や旗がたてられていて、その場所に行ってみると当時の武将たちが、どんな場所でどんな景色を眺めながら決戦に挑んだのかを、リアルに味わうことができました。
私が実際に歩いた中で一番印象的だったのは、西軍武将 大谷吉継の陣地。
大谷軍の陣地があったのは小高い山を上ったところでした。
しかし、山の上は木が生い茂り、肝心の戦いが繰り広げられる平原が全く見えません。
なんでこんなところに陣地を組んだのだろうと不思議に思っていると、山の中に1か所だけ木々がなく、向こうにある山を覗くことができる場所を見つけました。
ちなみに見えた山は松尾山といって、同じく西軍の武将 小早川秀秋が陣地を張っていた山でした。
実は大谷は、合戦の始まる前から小早川秀秋の寝返りを予想し、何かあったときは全力でくい止めるべく、松尾山を見張らせるこの場所に構えていたのでした。
そして案の定、小早川は寝返ります。寝返った小早川軍が一気に大谷軍に攻めかかり、大谷軍もこれに応戦しますが、小早川の寝返りに反応した脇坂軍も大谷軍に攻撃を始めます。 そして激闘を繰り広げるも、大谷軍は敗北、大谷吉継は自刃してしまいす。
ちなみに大谷吉継は西軍大将の石田三成の親友でもありました。
石田三成に徳川家康との戦いを打ち明けられた時、無謀であると大谷は言い続けたそうですが、最後は病の身を押して死装束で合戦に挑んだと言います。
初めから無謀とわかりつつ、しかし友のために死を覚悟して戦いに挑んだ大谷吉継の生き様には、心を打たれました。
他にも合戦のさなかの様々な人間模様が、資料館にはまとめられていました。
最後に、合戦といえば男達の戦いなのですが、実は戦いの裏方で、女性たちにも大事な仕事があったそうです。
それは男達が討ち取ってきた敵将の首を、家康が検分する前に、顔を洗い、化粧を施すというもの。
顔を見て、身分が高そうに見える首には高評価がつけられたことから、彼らに良い評価を獲得させようと、女性たちは尽力していたのだそうです。
会計事務所で仕事をしていると、世の中いろんな仕事があるなぁと常々思っていたのですが・・・こんな仕事もあったんですね・・・。
またそこで地図をもらうと、実際の合戦跡地を自分たちで巡ることもできます。
東軍・西軍の各武将たちの陣地跡地には、石碑や旗がたてられていて、その場所に行ってみると当時の武将たちが、どんな場所でどんな景色を眺めながら決戦に挑んだのかを、リアルに味わうことができました。
私が実際に歩いた中で一番印象的だったのは、西軍武将 大谷吉継の陣地。
大谷軍の陣地があったのは小高い山を上ったところでした。
しかし、山の上は木が生い茂り、肝心の戦いが繰り広げられる平原が全く見えません。
なんでこんなところに陣地を組んだのだろうと不思議に思っていると、山の中に1か所だけ木々がなく、向こうにある山を覗くことができる場所を見つけました。
ちなみに見えた山は松尾山といって、同じく西軍の武将 小早川秀秋が陣地を張っていた山でした。
実は大谷は、合戦の始まる前から小早川秀秋の寝返りを予想し、何かあったときは全力でくい止めるべく、松尾山を見張らせるこの場所に構えていたのでした。
そして案の定、小早川は寝返ります。寝返った小早川軍が一気に大谷軍に攻めかかり、大谷軍もこれに応戦しますが、小早川の寝返りに反応した脇坂軍も大谷軍に攻撃を始めます。 そして激闘を繰り広げるも、大谷軍は敗北、大谷吉継は自刃してしまいす。
ちなみに大谷吉継は西軍大将の石田三成の親友でもありました。
石田三成に徳川家康との戦いを打ち明けられた時、無謀であると大谷は言い続けたそうですが、最後は病の身を押して死装束で合戦に挑んだと言います。
初めから無謀とわかりつつ、しかし友のために死を覚悟して戦いに挑んだ大谷吉継の生き様には、心を打たれました。
他にも合戦のさなかの様々な人間模様が、資料館にはまとめられていました。
最後に、合戦といえば男達の戦いなのですが、実は戦いの裏方で、女性たちにも大事な仕事があったそうです。
それは男達が討ち取ってきた敵将の首を、家康が検分する前に、顔を洗い、化粧を施すというもの。
顔を見て、身分が高そうに見える首には高評価がつけられたことから、彼らに良い評価を獲得させようと、女性たちは尽力していたのだそうです。
会計事務所で仕事をしていると、世の中いろんな仕事があるなぁと常々思っていたのですが・・・こんな仕事もあったんですね・・・。