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ペリーから小笠原を守った一冊の本・・・大橋です

12.10.12
事務所通信
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色々と話題になっている領土問題。
外国との領土問題は、最近になって勃発した近現代のお話し、のようなイメージがありますが
江戸時代の幕末期にも諸外国と領土の権利を主張しあっていた歴史がありました。

今回は小笠原諸島と、それを諸外国から守ったといわれる『林子平』という人物について記事を書きたいと思います。

林子平(はやし しへい)は1738年に江戸で生まれ、その後仙台藩士となりました。
1738年というと黒船来航が1849年ですから、いわゆる「幕末」の100年前になります。

彼が歴史に名を残した理由は『海国兵談』『三国通覧図説』という二冊の書物を残したためです。

当時の日本は江戸幕府がとても強い権力を持っておりました。
さらにこの頃は「寛政の改革」の真っ最中。
海外に関する学問は一切禁止。
そのうえ幕府に対する政治批判に最も厳しかった時代でした。

そんな頃、林子平が書いた書物『海国兵談』。

「江戸の日本橋より唐、阿蘭陀迄境なしの水路也」は、その一文ですが

要するに「日本は海を通じて色んな外国と繋がっててるから、いつ外国から艦隊が攻めてこられてもおかしくない。だから海防を強化しないと!」
といった内容の本でした。

幕府に対し海防論を説いたこの本は政治批判と取られ発禁処分となり、刷るための版木も燃やされました。
もう一冊の『三国通覧図説』は政治とは関係なく、日本付近の島々の風俗などについて書かれたものでしたがこれもついでに発禁処分に。

生涯をかけて『海国兵談』を書いた林子平は自宅に蟄居(*)させられ  

「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き
その二年後に蟄居のうち死去となりました。 *蟄居(ちっきょ)とは江戸時代の刑罰で自宅謹慎など。

日本が外国から攻められたことは元寇(鎌倉時代中期)のたった一回きりであり
船舶技術が飛躍的に向上していた18世紀といえども
海防の必要性を初めて説いた林子平の先見性は非常に優れているといえ
のち幕末期、ペリー来航近辺から始まった対外危機、西洋列強との並立、富国強兵論等の見地から
『海国兵談』は見直され、近代日本に強い影響をあたえるようになります。


さて時代は下りペリー来航の1853年。
浦賀入港を少しさかのぼる事一か月前、ペリーは小笠原に上陸していました。
小笠原は当時、どの国の所有なのかがあいまいでした。

ペリーはこの領有の定まっていなかった小笠原を「ここは我がアメリカの領土」だ!と勝手に宣言しておりました。
当時は植民地ブームに加えて鯨脂ブームでしたから、鯨の漁場である太平洋の島を抑えることは
そのまま国力を高めることに繋がるのです。
国力が高めたいのは当然アメリカだけではなく
「アメリカがそういうならうちも!」という感じで同じようにイギリスやロシアも領有権を主張しはじめました。
今まで平和だった小笠原は、あっちこっちの国に引っ張り合いになってしまいました。

これに焦ったのは江戸幕府。
このままでは小笠原がどこか他の国になってしまいます。

当時小笠原はイギリスから『ボニン・アイランド』と呼ばれていました。
江戸幕府はこれを論拠に『ボニン』は日本語の『無人』がなまったものだから日本の領土だ、と主張するも

「『無人』?じゃあ小笠原には日本人が住んでいないんじゃないか(笑)」とあっさり論破。

悔しいけれど「小笠原諸島は日本の領土です!」と証明できる文献がありません。
しかも国際的に通じる文献となると、そんなものあるわけがない。

窮地に立たされた日本。
小笠原諸島は諸外国のものになってしまうのか・・・?

そんな時に "発見" されたのが、林子平の『三国通覧図説』

この地図には、小笠原が日本の領土であることがしっかりと明記されていました。


しかもこの『三国通覧図説』
実は長崎からオランダに渡っており、ヨーロッパ各国語版に翻訳されていたのです。

というかそもそも小笠原諸島が世界に注目されたのは
この翻訳された『三国通覧図説』により「ボニン・アイランド」として紹介されたためなのです。

これはもう完全に国際的に通用する書物。

これにはさすがのペリーもぐうの音も出ず、小笠原は晴れて日本の領土になった、
という逸話があるそうです。

死後に評価される偉人は少なくないですが
自分の国のために生涯をかけて残した本が死後、国難を救った
なんてロマンを感じますね。

ちなみにこの林子平、
清国人たち(現、中国人)が立てこもった洋館に小数で切り込んだり、束ねた剣を一刀両断したりといった
エピソードが残っておりかなりの剣豪でもあったそうです。