創業者の“魂”~シャープの創業者・早川徳次氏~
■ シャープが、鴻海傘下に
日本でも有数な大企業・シャープが、台湾企業・鴻海(ホンハイ)精密工業に買収・・・との報は、日本のみならず台湾でも、大きな耳目を集めました。
国内上位のこれだけの大手電機メーカーが、会社まるごと、外資企業の傘下に入るという、前代未聞の出来事!
シャープに関わる一連の報道を目にして、様々な想いも胸中を巡りますが、やはりこのような大きな節目で、想いをいたすのが創業者です。
(つづく)
日本でも有数な大企業・シャープが、台湾企業・鴻海(ホンハイ)精密工業に買収・・・との報は、日本のみならず台湾でも、大きな耳目を集めました。
国内上位のこれだけの大手電機メーカーが、会社まるごと、外資企業の傘下に入るという、前代未聞の出来事!
シャープに関わる一連の報道を目にして、様々な想いも胸中を巡りますが、やはりこのような大きな節目で、想いをいたすのが創業者です。
(つづく)
■ シャープの創業者・早川徳次氏
シャープの創業者・早川徳次氏は、1893年生まれ。
松下幸之助翁ではありませんが、丁稚奉公を経て、1912年に開業独立。
兄とともに発明した、金属製で精度の高い「早川式繰出鉛筆」が完成。
これがまさに“シャープペンシル”の起こりで、
後の事業としても大きな成長を遂げる原動力になります。
輸入機械まで導入し、当時のまさに最先端を走り、
従業員数も200名を超えていたというので、
当時の勢いがうかがい知れます。
■ すべてを失った、関東大震災
1923年(大正12年)9月1日。
正午前に起きた関東大震災が、早川徳次氏の人生を大きく変えます。
東京の下町にあった家、工場、そして妻、二人の子供までもすべて失ってしまうのです。
北康利氏「日本を創った男たち」(月刊・致知2011年9月号)に、
当時の様子がリアルに著されているので、ご紹介してみます・・・
■ 妻、6歳と9歳の子どもまでも・・・
妻・文子は、火が出た際に子供たちをかばったため、全身に大やけど火傷を負っていた。
炎と熱風に追われるようにして、油堀(深川にある十五間川の通称)の中へと避難し、
流されないよう、堀の中の杭にすがりついた。
6歳になる克己をおぶって、9歳の煕治をかかえているのはつらい。
だが、いくら待っても、火の勢いは収まらない。意識が朦朧(もうろう)としてきた。
ふと背中が軽くなったと思ったら、背中の克己が流されていった。
慌ててつかまえようと手を伸ばした途端、こんどは煕治が流されていった。
そして妻も、2か月後に子供たちの後を追って、あの世へと旅立つ。
■ 不撓不屈の“魂”
追い打ちをかけるように、大阪の日本文具製造という会社が借金を返すよう迫る。
やむなく会社を解散し、シャープペンシルの特許を無償提供し、製造機械を売却することに。
その点、彼は実に潔かった。
借りた金は何としても返す。それは商売の基本である。
特許は入手したものの、日本文具製造に技術はない。
そこで大震災の年の12月、徳次は新天地の大阪へと旅立ち、
彼らの技術指導を始める。
技術指導にめどが立った後、事業再開の根拠地として、
大阪の土地235坪を10年契約で借りた。
現在、シャープ本社がある場所である。
新しい工場に「早川金属工業研究所」という看板を掲げたのは、
震災からちょうど一年後の大正13年9月1日。
彼はあえてこの日を再出発の日に選んだ。
■「好況よし、不況なおよし」
経営者として、節目節目で、様々な選択を迫られることは、少なくありません。
いま置かれている状況を、どのように捉えるかということも、
経営者としての姿勢にかかわるものです。
松下幸之助翁は、生前「好況よし、不況なおよし」と説かれました。
なぜ、「不況なおよし」なのか?
上甲晃・松下政経塾元塾頭は、松下幸之助翁の生前の言を、こう語ります。
「好況のときにはな、誰が経営しても、そこそこ上手くいくものや。
経営力よりも、景気力が後押ししてくれるからな」
「ところが、不景気のときは、経営力がなければやっていけない。
だから、経営の本当の差は、不景気のときにつくものや」
■ 頑張れシャープ!頑張れ日本企業!!
早川徳次氏の経験した、人生最大ともいえる逆境の凄まじさ、
それに耐えて経営者として再び立ち上がる力強さも、私たちの想像を絶するものです。
もし、あのときに挫折してしまっていたら、大阪の地に再興した、いまのシャープもなく、
連日賑わしている鴻海による買収もなかったでしょう。
工場を興した直後、給料の支払いすら定かでないにもかかわらず、
早川徳次氏を信じ慕って、多くの従業員がついてきたといいます。
早川徳次氏は、晩年、揮毫には“何糞(なにくそ)”と書くこともあったと聞きます。
シャープという企業には、そんな日本人の底力が流れているのです。
早川徳次氏の“不屈の魂”は・・・
頑張れシャープ!
頑張れ日本企業!!
私たちを、強くそんな気持ちにしてくれます。
平成28年(2016年) 3月
山 崎 泰
シャープの創業者・早川徳次氏は、1893年生まれ。
松下幸之助翁ではありませんが、丁稚奉公を経て、1912年に開業独立。
兄とともに発明した、金属製で精度の高い「早川式繰出鉛筆」が完成。
後の事業としても大きな成長を遂げる原動力になります。
輸入機械まで導入し、当時のまさに最先端を走り、
従業員数も200名を超えていたというので、
当時の勢いがうかがい知れます。
■ すべてを失った、関東大震災
1923年(大正12年)9月1日。
正午前に起きた関東大震災が、早川徳次氏の人生を大きく変えます。
東京の下町にあった家、工場、そして妻、二人の子供までもすべて失ってしまうのです。
北康利氏「日本を創った男たち」(月刊・致知2011年9月号)に、
当時の様子がリアルに著されているので、ご紹介してみます・・・
■ 妻、6歳と9歳の子どもまでも・・・
妻・文子は、火が出た際に子供たちをかばったため、全身に大やけど火傷を負っていた。
炎と熱風に追われるようにして、油堀(深川にある十五間川の通称)の中へと避難し、
流されないよう、堀の中の杭にすがりついた。
6歳になる克己をおぶって、9歳の煕治をかかえているのはつらい。
だが、いくら待っても、火の勢いは収まらない。意識が朦朧(もうろう)としてきた。
ふと背中が軽くなったと思ったら、背中の克己が流されていった。
慌ててつかまえようと手を伸ばした途端、こんどは煕治が流されていった。
そして妻も、2か月後に子供たちの後を追って、あの世へと旅立つ。
■ 不撓不屈の“魂”
追い打ちをかけるように、大阪の日本文具製造という会社が借金を返すよう迫る。
やむなく会社を解散し、シャープペンシルの特許を無償提供し、製造機械を売却することに。
その点、彼は実に潔かった。
借りた金は何としても返す。それは商売の基本である。
特許は入手したものの、日本文具製造に技術はない。
そこで大震災の年の12月、徳次は新天地の大阪へと旅立ち、
彼らの技術指導を始める。
技術指導にめどが立った後、事業再開の根拠地として、
大阪の土地235坪を10年契約で借りた。
現在、シャープ本社がある場所である。
新しい工場に「早川金属工業研究所」という看板を掲げたのは、
震災からちょうど一年後の大正13年9月1日。
彼はあえてこの日を再出発の日に選んだ。
■「好況よし、不況なおよし」
経営者として、節目節目で、様々な選択を迫られることは、少なくありません。
いま置かれている状況を、どのように捉えるかということも、
経営者としての姿勢にかかわるものです。
松下幸之助翁は、生前「好況よし、不況なおよし」と説かれました。
なぜ、「不況なおよし」なのか?
上甲晃・松下政経塾元塾頭は、松下幸之助翁の生前の言を、こう語ります。
「好況のときにはな、誰が経営しても、そこそこ上手くいくものや。
経営力よりも、景気力が後押ししてくれるからな」
「ところが、不景気のときは、経営力がなければやっていけない。
だから、経営の本当の差は、不景気のときにつくものや」
■ 頑張れシャープ!頑張れ日本企業!!
早川徳次氏の経験した、人生最大ともいえる逆境の凄まじさ、
それに耐えて経営者として再び立ち上がる力強さも、私たちの想像を絶するものです。
もし、あのときに挫折してしまっていたら、大阪の地に再興した、いまのシャープもなく、
連日賑わしている鴻海による買収もなかったでしょう。
工場を興した直後、給料の支払いすら定かでないにもかかわらず、
早川徳次氏を信じ慕って、多くの従業員がついてきたといいます。
早川徳次氏は、晩年、揮毫には“何糞(なにくそ)”と書くこともあったと聞きます。
シャープという企業には、そんな日本人の底力が流れているのです。
早川徳次氏の“不屈の魂”は・・・
頑張れシャープ!
頑張れ日本企業!!
私たちを、強くそんな気持ちにしてくれます。
平成28年(2016年) 3月
山 崎 泰