被災されたの皆様、ご関係者の皆様に心からお見舞い申し上げます--今月のメッセージ(4月号)
2011年4月1日14:45:00
3月11日、午後2時46分!
3月11日に発生した東日本大震災で尊い命を落とされた皆様方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
そして被災された多くの皆様方に、心よりお見舞い申し上げます。
その時、皆様はどこで、誰と、何をされていたでしょうか。
私は、薬の処方のために立ち寄った調剤薬局を出て、信濃町駅近くにある初めて入った定食屋で、
日経新聞を読みながら一人で遅い昼食をとっていました。
横揺れから始まったので、縦揺れではなかったことにホッとしたのも束の間。
飲食店ゆえ火を使っていたので、急いで店主が火を消す。
1階の店がテーブルごと大きく揺れて、居ても立ってもいられずに、落下物を気にしながらビルの外へ。
外へ出ても、電柱はじめ全ての建物が揺れている。
「いったい、何が起こったのか」「震源地は」「被害は」
「自宅は大丈夫か」「家族は」「子どもは」「実家は」「職場は」
「携帯電話が通じない」「携帯メールもだめ」「公衆電話はどこ」「テレホンカードもない、小銭は」
「家まで、職場まで歩いて帰れるだろうか」「とにかく早く連絡をとらなければ」
多くの皆様が、瞬間的に同じことを思われたと思うのです。
次の瞬間から、
自転車に飛び乗り事務所へ~
社員の安否確認~
公衆電話に駆け込み妻と電話~
子どもの迎えに自転車で学校へ~
社員の帰宅を指示等々---。
■気仙沼出身の知人が---
私どもの事務所でも、東北地方の顧問先を中心に少なからず被害がありました。
実は、当所のデザイン制作等を一手に引き受けて頂き、当所ビルに入居までして頂いている、まさに公私ともに深い付き合いをしている知人の親族が、
気仙沼出身。
社長が気仙沼、社員さんも気仙沼。いとこは気仙沼を地盤とする国会議員、私の松下政経塾の仲間でもあります。
実はこのメルマガも、毎月その知人の手を通じて配信されているのです。
震災直後に、まだ親族の安否も確認できない知人の手を通じて、しかも
震災にふれた内容のメルマガを、どうしてもお送りすることはできませんでした。
■被災直後に、何よりも欲しいもの→それは「???」
大地震の翌日、知人の会社に飛んで行きました。
まさに会社そのものが災害対策本部のよう。社長も社員も、みな気仙沼出身ゆえ、誰一人として親族と連絡がとれない状態。何と声をかけたらよいのか。24時間テレビをつけっ放しにして、ソファに毛布を置いて、食い入るようにニュースを見ておられました。テレビから目が離せない。
社長の実家には、祖母、両親、妹が住んでおられたとのこと。港からも近いので、実家はおそらく壊滅。津波から逃げ切れたかどうか---身内と連絡がとれない不安以上の辛さはないだろう、といくら私が思ってみたところで、本人の心配そして辛さは想像を絶するものだろうと思うのです。
「今、何かお手伝いできることは?」
「被災地に、何かできることは?」
自らの非力も省みず、申し出た私の尋ねに対する答えは。
■私達に何ができるか⇔被災者にとって何が必要か
『安否』が知りたい。
被災直後に、被災者やその親族が何よりも求めているのは、水でも毛布でも食べ物でもなく、『安否』。
そういえば、地震直後、まず私達が最初にしたことは何だっただろうか。
家族や社員の『安否』を確認しようと、携帯電話のキーを何度も押し続けたのでは。
ならば、被災者やそのご家族が、何よりも『安否』を知りたい、という気持ちに当然のように気が付かなければならないはず。
水や毛布---と、自分ができることだけ並べ立てて問うたことを、本当に恥ずかしく思いました。
「私達に何ができるのか」ということと、「被災者が本当に何を必要としているのか」とは、ややもするとすれ違ってしまう危険性。
自衛隊の無線を使ってでも、衛星を活用した携帯電話を使ってでも、とにかく『安否』確認。テレビも被災地の映像だけでなく、テロップで『安否』情報を流し続けるべき。
被災直後には、どんなにか関係者を安心させ、勇気づけるかということに、私達はもう一度、思いを致さなければなりません。
■どんな思いで
震災から5日後、「時事通信の写真に偶然にも祖母が写っていたので、カメラマンにどのような状況だったのか、問い合わせているところです」
震災から6日後、「テレビで、自衛隊のヘリから救出された中に母の姿が映っていたので、急ぎテレビ局に確認しているところです」
気仙沼の知人から、こんな電話が入ったのは、被災後一週間近くも経った後。その報せを聞いたとき、本当に涙があふれ出そうに嬉しく思いました。
「でも、父と妹の安否が分からないのです」
震災から10日後、やっとご家族全員の生存が確認された知人から、一通の便りが届きました。
■一通の手紙
「この度は、ご心配をおかけし、また業務上もご迷惑をおかけしているにもかかわらずご芳志を賜り、
誠にありがとうございます。」
「おかげ様で家族全員の無事は確認したものの、叔父が遺体で発見されたり、
叔母がいまだ不明であったり、未だ震災の余波が続いております。」
「津波の恐怖は、幼い頃から教わっていたつもりでした。
明治29年に、今回の津波に匹敵する災害があったようですが、曾祖母でさえ生まれる前のことで、
言い伝えでしか聞いておりませんでした。
それが現実に起こって、夢かと思ったほどです。」
「被災地ではみな、たくましく生き抜いているようです。
親心もありましょうが、両親からは邪魔だから帰ってくるなと釘をさされています。
確かに、帰ったところでライフラインが整っていなければ、私も被災者になるだけですから、
東京に残って、皆様のお役に立つことが被災地への励ましになると信じて頑張ろうと思います。」
被災地に飛んで帰りたい気持ちを押さえて、この東京の地から被災地の復興に尽力しようと決意するこの想いを、私達はどう受けとめればよいのか、どのような役に立ちかたがあるのだろうか。
被災地への寄附、街頭での募金活動、そして救援物資集めをしながらも、夜も眠れないくらいに考え続けています。
■もうひとつの、大きな反省
振り返って、震災当日。
娘を自転車で迎えに行って事務所に戻ると、帰宅を急ごうとする社員の姿。
その不安そうな表情を見て、交通機関の詳細状況を確認しきれない見切り発車で、希望する社員には帰宅の指示をしました。
いま思えば、この意思決定は経営者として本当に無責任だったと反省しています。
数時間かけて歩いて帰宅した社員。
深夜近くになっても電車が動かず、あきらめて事務所に戻ってきた社員。
ビジネスホテルに泊まって翌朝帰宅した社員。
顧問先に深夜までお世話になり時間を過ごした社員。
ビルの揺れに怯えながらも追われる仕事をこなしつづけた社員等々。
なかにはもちろん、女性社員もいるわけです。
全くといってよいほど、危機管理のできていない事務所---
入社時に「責任をもってお預かりします」と約束しながら、ご家族などにどれだけ心配をかけてしまったか、心から反省しています。
私自身の大いなる反省にも基づいて、---
震災直後は、交通機関の運行状況・見通しの有無をできる限り詳細に伝える。
道路は、一部の緊急車両を除いて規制。バスなどの公共交通機関専用のルートを確保。
帰宅困難者対策も含めて、各自治体は避難所設置の見通し、
避難所開設の時刻・場所等の情報をできる限り速やかに公表。
電車運転の再開見通しがつかないことが判明した後、避難所を設置したのでは、
地震発生後数時間も経った夜8時過ぎというような今回のようになってしまいます。
最後に私の長年の主張ですが、自治体は役所に歩いてでも通える職員職員比率を増やすこと。
自治体職員が帰宅難民になってしまうようでは、そもそも業務に専念できません。
またもし夜間や休日に災害が起きたとき、走ってでも役所にかけつけることができる職員がいかに大切か-―
112名の幹部職員のうち9名しか区内在住者のいない新宿区に住む一人として、あらためて痛感した次第です。
平成23年(2011年)4月 |