『松下幸之助翁』と『中国・アジア』 ~なぜ、中国・アジアネットワークを目指すのか!~
2012年4月5日13:11:00
■ 4月、「日本に暮らしていてよかったなぁ」
4月、新しい年度スタート。
4月1日、東京は朝方の風こそ冷たかったものの、日中は穏やかな日和でした。
大学キャンパス入り口には、新入生歓迎の準備をする大学生。
オフィスでは、新入社員と思しき紺色スーツ姿で緊張した面持ちの男女。
病院でも、医局スタッフに院内を案内されている若い看護師。
当社も、保育園入園式で、女性社員2名がお休み。
そして、穏やかな日和に、ここぞと咲き急ごうとする遅咲きの桜。
待ち遠しかった春がやってきました。
「四季の移り変わりのある日本に暮らしていてよかったなぁ」と感じる季節です。
■ なぜ、中国・アジアネットワークを目指すのか?
4月4日から、中国の香港・深センに出張しています。
昨年から、全国の80の会計事務所とも中国アジア方面に関するネットワークを組み、私達も本格的に中国アジア業務本部をスタートさせました。
大連出身の中国人社員、上海留学経験のある日本人社員、上海駐在予定の中国人スタッフ…バイリンガルの語学力を活かして、事務所を「日本と中国の架け橋に!」と、生き生きと頑張ってくれています。
なぜ、私達は中国・アジアネットワークを目指すのか?
■ 存命中の幸之助翁に会った数少ない人達だから…
最近、税務会計や資金調達などの講演のほかに、松下幸之助翁の話をしてくれないかという依頼が増えてきました。
松下幸之助翁は私達にとっては、松下政経塾の「塾主」という心の原点であり、その思想を少しでも継承したいと願う憧れであり、人生の針路に迷った時の羅針盤であり、幸之助翁に対する強い想いをそっと胸にしまっておきたい気持ちも強いのですが…。
特に最近は、「存命中の幸之助翁に会った数少ない人達だから…」ということで、講演を依頼されることも多いのです。
先日も、講演後の懇親会で3件も依頼があったのには、さすがに驚きました。
「やはり不況の今、経営の神様・松下幸之助翁がどのような生き方をしたのか、を皆さん求めておられるのだな…」
些かなりともお役に立てるのならば、との思いで、お話をさせていただいています。
■ 「21世紀は、アジアの時代が来る!」
松下幸之助翁は、こう語っておられました。
「世界では、繁栄の中心が回っている。まるで時計の針のように。
エジプト、ローマ、そして19世紀はイギリスはじめヨーロッパ全体に広がって、20世紀は大西洋を渡ってアメリカへ。
21世紀、次の繁栄は太平洋を渡って日本に来る、アジアに来る」
「その繁栄の受け皿となるものを、今から用意しておかなければならない」
松下政経塾設立趣旨のひとつも、来るべきアジアの繁栄の受け皿となりうる人材育成にありました。
■ 「経営の神様」と「開放改革の旗手」
こんなエピソードがあります。
(松下政経塾報(ファイルサイズ:1.3MB))
昭和53年10月28日、政経塾開塾の1年半前。
当時、開放改革の旗手といわれた鄧小平・国務院副総理が来日。
鄧小平氏にとって、中国の近代化、すなわち電子工業化を目指すための視察も、来日の大きな目的のひとつだったといわれています。
向かったのは、大阪・茨城市にある松下電器・テレビ事業部。
迎えたのは、当時齢83歳だった松下幸之助翁。
中国の立ち遅れた現実を、臆せず語る鄧小平氏。
テレビ・冷蔵庫・洗濯機が三種の神器と呼ばれる中で、家電製品はまだまだ手作業。
カラーテレビ・ビデオカメラ・電子レンジ・ファクシミリ等々、松下電器の近代的な生産ラインを視察。
「電子工業化ができなければ、中国は近代化ができない」
「中国近代化に向けて、援助をお願いしたい」
「そのために、教えを請う姿勢で来日した」
と語る鄧小平氏に対して、松下幸之助翁は、松下電器あげて全力で支援することを約束。さらに、鄧小平氏からの訪中の招請も受けるに至るのです。
『中日友好前程似錦』
その時に鄧小平氏から贈られた色紙には、「中日友好の前途は、錦のように明るい」という意が込められ、中国近代化にとっていかに大きな飛躍の礎となった訪日であったかが伝わってくるようです。
■ 「必ず、日本と中国が、アジアの世紀の中心となる」
「大きな視野で、中国の近代化に協力しなければ」
昭和54年6月29日、政経塾開塾の9ヶ月前。
約束通り訪中した松下幸之助翁は、鄧小平氏と再会。
訪中の間に、中国政府と技術協力協定を結び、白黒テレビのブラウン管プラント輸出も開始。
文字通り、中国近代化、電子工業化を、松下電器あげて全力で支援していくのです。
当時、幸之助翁の思想の根底にあったものはなにか?
それは、まさにこの想いに外ならないのです。
「必ず、日本と中国が、アジアの世紀の中心となる」
「大きな視野で、中国の近代化に協力しなければならない」
■ 『モノをつくる前に、人をつくる』
かつて、インドネシアからラジオ生産への協力を打診された時。
あまりにも島が多くて、採算が取れないと一蹴した企業もあるなかで…
「産業を興す手伝いができるのならば」と技術援助を決めた幸之助翁。
1万以上の島々に暮らす国民を抱えるインドネシアからの「国民のコミュニケーションがとれるように、ラジオ生産に協力して欲しい」との要請に応えたのです。
そして、進出した国々で、産業の基盤となる人材育成にも力を注いだ幸之助翁。
インドネシアでも、私財を投じて教育財団を設立しています。
『モノをつくる前に、人をつくる』
まさに幸之助翁の経営哲学です。
■ 忘れてはならない姿勢
21世紀に繁栄の受け皿となると、幸之助翁が信じたアジア。
果たして、日本がその受け皿になり切れているのか‐‐‐と考えると、とても複雑な想いでいっぱいになります。
「進出した国の産業振興や、人々の生活向上に役立つかどうか」を、海外進出の判断基準にした幸之助翁。
果たして、そんな広く公益的な視点で海外進出のお手伝いをしているかどうか‐‐‐と考えると、とても不安な気持ちになります。
円高対策や節税対応で生産や生活拠点を移すことに傾きがちな昨今にあって、忘れてはならない姿勢を、また幸之助翁から教わったように思います。
■ 香港の街並みを見ながら…
海外での事業展開に、なぜ松下電器は成功したのか?
成功の鍵のひとつは、
『経営理念を徹底して浸透させたこと』にあるといわれています。
言語も文化も習慣も異なるからこそ、経営理念という「共通言語」「共通文化」「共通習慣」を大切にしたのです。
そして、『モノをつくる前に、人をつくる』
香港の街並みを見ながら…中国・アジアネットワークを目指した原点を考えています。
2012年(平成24年)4月