山田方谷に学ぶ・・・
■見事に財政改革を成し遂げた理財家・教育者
4月にスタートした「日本納税者協会」。
これから活動を展開していくにあたって、歴史上も、様々な
人物に学んでいきたいと思っています。
その歴史上の人物として、欠かすことのできない一人が、
江戸時代末期から明治時代初期に生きた山田方谷。
■山田方谷の生い立ち
方谷は、文化2年(1805年)、備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町)の生まれ。
方谷の父、又五郎は、農業と菜種油の製造販売を家業とし、方谷は5歳で、新見藩の儒者・丸川松隠の私塾で、朱子学・陽明学を学びます。
14歳で母を、15歳で父を亡くすも、家業と学業を両立するうちに、篤学の名声が広まり、文政8年(1825年)、方谷21歳の時に、藩主・板倉勝職に認められ、二人扶持が支給され、藩校・有終館に勤務。
文政12年(1829年)、藩主から名字帯刀を許され、24歳で有終館会頭(教授)に抜擢されるのです。
文化・文政の時代は、江戸中心の町人文化が全盛を迎えるも、天命の大飢饉や浅間山の大噴火などもあり、幕府や各藩の財政は窮乏するという、波乱の時代でもありました。
■佐藤一斎塾・塾頭~帰郷~備中松山藩の財務大臣に・・・
天保5年(1834年)、江戸に遊学し、佐藤一斎の門下に入り、塾頭に就任。
同門には、6歳年下の佐久間象山。
天保7年(1836年)、佐藤一斎塾を退き、備中松山藩に戻り、有終館学頭(校長)に。
江戸随一といわれた佐藤一斎塾の塾頭にまでなって帰郷したため、学問・人格ともに優れる方谷を慕って、全国から集まってくる者も多数いたといいます。
天保9年(1838年)、方谷34歳の時に、「立志」「遊芸」「励行」を三大規則とする私塾・牛麓舎を自宅に開設。
嘉永2年(1849年)、藩主・板倉勝職が逝去。
新藩主・板倉勝静から、元締役兼吟味役を命ぜられ、いわば備中松山藩の財務大臣に・・・。
「備中松山藩の抱える巨額の財政赤字を解消できるのは、方谷ただ一人しかいない!」
新藩主・勝静から、藩政改革を託された方谷の本格的な改革が、ここから始まるのです。
■『理財論 事の内に屈せず!』~山田方谷の財政論(その1)
『理財論』は、山田方谷がまだ江戸で佐藤一斎塾の塾頭をしていた時に
書かれたもので、財政改革に取り組むにあたっての、方谷の基本姿勢を
表した真髄。
以下、「山田方谷全集」、「山田方谷の理財論とその周辺」(山田琢)、
「山田方谷に学ぶ改革成功の鍵」(野島透)より、理財論の一部を抜粋して
ご紹介します。
藩国の窮乏は、ますますひどい。
田地税・収入税・関税・市場税・通行税・畜産税など、わずかな税金でも必ず徴税する。
その政策を実施すること、数十年に及ぶ。
しかるに藩国の窮乏はますます救い難く、府庫は空洞となり、債務は山積している。
何故であろうか。知恵が足りないのであろうか。方策がまずいのであろうか。
いや、そうではない。
総じて、善く天下の事を制する者は、事の外に立って事の内に屈しないものだ。
しかるに、当今の理財の当事者は、悉く財の内に屈している。
思うに、当今は太平が久しく続き国内は平穏で、国の上下ともに安きになれている。
ただ国の窮乏だけが、目下の憂い・・・
国の上下の人心は、この一事に集中し、その憂いを救わんと計り、
その他の事はなおざりにされている。
人心は日に邪悪になっても正すことはせず、風俗は軽薄になっても処置はせず、
役人は日に汚職に汚れ、人民の生活は日に廃れても引き締めることはできず、
文教は日に荒廃し、武事は日に弛緩しても、振興することはできない。
このことを当事者に指摘すると、財源がないのでそこまで手が及ばないと答える。
ああ、これらの数事項は国政の大綱であるのに、なおざりにしている。
そのために、政道は乱れ、政令は廃れて、理財の方途もまた行き詰まる。
それにもかかわらず、ただ理財の末端に走り、金銭の増減にのみこだわっている、
これは財の内に屈しているものである。
理財の方策は緊密になっても、窮乏はいよいよ救い難いのは不思議ではない。
■『理財論 事の外に立つべき!』~山田方谷の財政論(その2)
ここに一人物があって、生活は赤貧洗うが如く、居室には蓄えなく、
かまどには塵が積もる有様である。
しかるに、この人物は平然として窮乏に屈せず、我が独自の見識を
堅持している。
この人物は、財の外に立つというべきである。
富貴はかえってこの人物に恵まれるものである。
これに反して市井の普通人は、その願いは数金の利益を
得るに過ぎないのに、年中あくせくして、求めても得られず、
飢えが迫って終には死に至る者もある。
これは、財の内に屈するというべきである。
ところが当今の堂々たる一大藩国でありながら、その為すところを見ると、財の外に立つ一人物
にも及ばず、財の内に屈する市井の普通人と、その愚を同じくしている。
なんと悲しむべきことではないか。
■ 『理財論 義を明らかにして、利を計らず!』~山田方谷の財政論(その3)
義と利との区別をつけるのが重要なこと。
政道を整備して政令を明確にするは、「義」。
飢餓と死亡とを免れようとするは、「利」。
君子は、義を明らかにして、利を計らない。
ただ政道を整備して、政令を明確にするのみ。
飢餓と死亡とを免れるかは天命。
義と利との区別がひとたび明らかになれば、守るべき道が定まる。
利は義の和。
政道が整備し政令が明確になるならば、飢餓と死亡とは免れないことはない。
私の言うことを迂遠なこととして、別の理財の方途があると言うならば、当今の藩国が
理財の方途を行うこと久しくして、窮乏のいよいよ救い難いのはなぜなのか。
■備中松山藩の窮状を、今の日本に例えると・・・
食い入るように、山田方谷の足跡を辿るなかで、山田方谷の6代目の子孫にあたる野島 透氏が、
財務省大臣官房会計課長時代に著した「山田方谷に学ぶ改革成功の鍵」は、大いに示唆に富むものです。
野島氏とは、たまたま同じ年で、今の日本を支える会計課長としての視点も交えながら、山田方谷
の直系子孫として、当時と今の財政状況を比較しながら、率直に語られる姿・・・大きな刺激を受けました。
同氏によると、嘉永2年(1849年)の時点で、
*備中松山藩の借金は約600億円(10万両)。備中松山藩の通常時の財政規模の約2倍。
*公債依存度は、通常の税収ベースでは71%、特別収入まで合わせても54%、
臨時収入まで入れて、やっと43%。
ちなみに、今の日本は、
*一般会計歳出総額は約95.8兆円、新規国債発行額は41.2兆円、公債依存度は43%。
「備中松山藩の状況を、現在の国家財政にあてはめると、通常の税収入だけでは、公債発行額が
68兆円にもなってしまう。そこで、企業に特別の税金(特別収入)を課し、それでも足りないので、
国民に対して、臨時で所得税率を上げて対応しても、まだ公債を42兆円も発行しなければなら
ない状況」 (野島氏著書より試算)
■山田方谷の7大政策
今の日本よりも、はるかに厳しい財政状況のなか、いったい山田方谷は、どのような財政改革を
行ったのでしょうか。
「新時代の潮流を読み(産業振興)、国民を富ませ(民政刷新改革、教育改革)、
国民に信頼される(負債整理、藩札刷新)政策とともに、政府の無駄を省く(上下節約)政策は、
現代社会に有益なヒントを与えてくれる」
とする、野島氏により整理された各政策を、「財の外に立って、財の内に屈しないように」気をつけながら、紹介してみます。
- 産業振興政策
「撫育方」という役所を新設して、藩内の事業部門を集中。
「武士は食わねど高楊枝」という時代にもかかわらず、司馬遷の「史記」に多くを学んだ方谷は、自由経済市場を当然のこととして、金儲けは卑しい者がするという「賎民思想」を全く持ち合わせず、武士に対する考え方そのものを、パラダイム変換。
商業の発展が、藩の財政負担を重くし、借金を重ねたにもかかわらず、自給自足を基本とする農本資本主義による年貢米徴収、節約だけでは、借金は到底返済できないことを認識。
資本主義経済によって生まれた借金は、資本主義経済による利潤の確保によってのみ返済可能であることを見抜いていたともいえます。 - 負債整理政策
藩窮状を、包み隠さず債権者である大阪の両替商(銀主)に説明。
その際に不可欠だったのが、徹底した情報公開。
支払猶予の間に、藩の財政体質を健全化し、新規事業に投資。
新規事業で得た利益をもって、棚上げしていた借金を返済していくという財政再建シナリオ。
情報公開の実施を、藩の重役会議で了承させたくだり・・・
「借りたものは返す。これが大信を守るということ。
今までと変わりなく実収を隠して、大阪の銀主達への審議を失うまいとするのが、
小信を守るやり方。やがて必ず、負債返済が不可能な時が訪れる。
問題の先送りにしかならない。大なる信義を守るためには、
小なる信義を守ってはおれませぬ。」 (矢吹邦彦「炎の陽明学」)
方谷の信条である「誠意中心主義」の発現ともいわれているのです。 -
藩札刷新政策
赤字財政補填の窮余の一策として、藩札を刷り続けた備中松山藩。
倒産同然の藩札など、偽札まで出回るなど、全く信用力のないもの。
領民が社会的不安にかられて、懐を必要以上に引き締めると、流通が止まり、経済が停滞し、崩壊するという経済学の鉄則を熟知していた方谷は、財政再建にあたって、藩札の信用回復を重視。
紙くず同然と嫌われていた藩札を、通貨(正貨)に交換するとのお触れを出し、回収した藩札は、「悪貨駆逐」と称して大観衆の面前で一挙に焼却。
藩札と交換し、市中に出回った正貨は、必ず次の経済の芽を育む。
藩札の兌換を実施することは、藩政改革へのただならぬ決意を内外に表明し、威信回復につながり、新たな藩札は抜群の信頼を得ることに。 -
上下節約政策
嘉永3年(1850年)、方谷が出した倹約令・・・
・衣服は上下とも綿織物を用い、絹布の使用を禁ずる。
・饗宴贈答は、やむを得ざる外は禁ずる
・奉行代官等、一切の貰い品も役席へ持ち出す。
・巡郷の役人へは、酒一滴も出すに及ばず。
「領民第一主義」の方谷は、自ら役得などを貰っていないことを、藩民に公明正大に知らせるために、自らの家の家計を第三者の藩士に任せ、それを公開。
そこまでして、身辺の清廉潔白を徹底していたのです。 -
民政刷新改革
〈嘉永4年(1851年)、藩財政に関する上申書〉
「財政再建は、金銭の取扱いばかり考えていて、決して成就できるものではなく、
国政から町民・市中までをきちんと治めて、それができるものである。
政治と財政は車の両輪」
〈安政2年(1855年)、撫育の急務上申書〉
「藩主の天職は、藩士並びに百姓町民を撫育すること。
まず急務とするところは、藩士の借り上げ米を戻すこと、百姓の年貢を減らすこと、
町人には金融の便宜を図り交易を盛んにすること」
撫育とは、藩民を慈しみ、愛情をもって育てるという意。
上下ともに富む、という藩政改革の基本姿勢から、様々な民政刷新改革が行われたのです。 -
教育改革
方谷は、庶民教育のための学校設立にも尽力。
教育施設の充実ぶりは、近隣の大藩をはるかに凌ぐものであり、優秀な生徒には賞を与え、
士分にも登用し、役人にも抜擢したことから、向学心に燃えた子弟が多く集まったといいます。 -
軍制改革
世界の列強が、競って日本に目を向けようとしていた時代、藩主・勝静の命を受け、
方谷は「文武は車の両輪」として、武道の奨励にも尽力。
しかし藩士には、兵法を知らない方谷に、西方式砲術や銃陣の採用を教わることには抵抗感が強く、方谷が編み出したのが農兵制度「里正隊」。
逆境を新しい発想に取り入れて、圧倒的多数の農民を兵力に引き入れて富国強兵を図るのです。
■今の日本とも重なって見えるのは、私だけでしょうか・・・
国の借金が1,000兆円を超え、税収を新規国債発行額が上回るという異常事態すら続いた、
今の日本。
景気低迷で税収が伸び悩むなかで、東日本大震災などの天災を国債増発で対応、高齢化に
ともなう社会保障費の増加。
目先のプライマリーバランスを目標値にしつつも、いつまで経っても一向に改善されず、
財政悪化していくばかり。
4月28日、財政制度等審議会(財務省の諮問機関)からは、仮に消費増税による歳入増だけで
国の借金を減らそうとすると、なんと消費税率を30%近くにまで引き上げなければならないという
試算まで発表されたばかり・・・
冒頭で紹介した、山田方谷の生まれた時代背景、国や藩が窮乏し、増税するも財政が好転せず、
天災まで起こり、財の内に屈する施策ばかりで、長くて苦しい財政赤字から脱せない・・・
そんな時代とも重なって見えるのは、私だけでしょうか。
2014年(平成26年)5月
山 崎 泰