『後藤新平』について
本日は『後藤新平』について書きたいと思います。
渋谷区界隈を測量していると良く言われる訳です。
「この道路は後藤さんが作ったものだから間違いない」「この施設も後藤さんが作ったものだから…」
「なんて信用の高い地主さんなんだ!
それ以前の問題として、親しみを持たれてる地主さんは居ても
尊敬されてる地主さんなんて聞いたことない」とおもい、とある時に意を決して聞いてみました。
「後藤さんて何故そんなに尊敬されてるんですか?」
大恥をかいてしまいました。
「あなた後藤新平さんを知らないの!!」
え…
「な、なにを仰います。あの明治維新の豪傑・後藤新平さんですよね。
知らない訳ないじゃないですか」
それ以上言わなくて良かったです。
実はその時、私は江藤新平と勘違いしていました。かなりの大恥者です。。
江藤新平さんは佐賀藩出身の幕末の志士。
後藤新平さんは仙台藩出身ですが、維新の時点でまだ11歳なので、
明治維新には関わりあいたくても関われない年齢です。
なので時代は少しだけズレています。
さて、この後藤新平さんですが、他にも偉業はあると思いますが、ここでは
測量と絡むところだけを抜粋します。
大正12年9月2日、関東大震災の翌日から4か月間、内務大臣を務めています。
その間に『震災復興計画』を練り上げ、 その大綱は、
- 1.遷都すべからず
- 2.復興費は30億円を要すべし
- 3.欧米最新の都市計画を採用して、我国に相応しい新都を造営せざるべからず
- 4.新都市計画実施の為めには、地主に対し断固たる態度を取らざるべからず
1以外は全て頓挫し、骨抜きにされてしまいましたが、その内容が凄すぎます。
まだ大八車が主流の時代に現代の道路網の絵図を引いてしまっている事です。
この平成の時代になっても完成していません。
【東京の環状道路】
1号線 → 内堀通り
2号線 → 外堀通り
3号線 → 外苑東通り
4号線 → 外苑西通り
5号線 → 明治通り
6号線 → 山手通り
7号線 → 環状7号線
8号線 → 環状8号線 and more
【東京の放射状道路】
1号線 → 東海道(第二京浜)
2号線 → 中原街道
3号線 → 目黒通り
4号線 → 青山通り
5号線 → 甲州街道
6号線 → 靖国通り
7号線 → 目白通り
8号線 → 川越街道
9号線 → 中山道
10号線 → 北本通り
11号線 → 尾久橋通り
12号線 → 日光街道(昭和通り)
13号線 → 水戸街道
14号線 → 蔵前橋通り
15号線 → 京葉道路
16号線 → 永代通り
17号線 → 産業道路
18号線 → 海岸通り
19号線 → 第一京浜
20号線 → 日比谷通り
書ききれないからこの辺で…
私が測量の仕事についたばかりの頃に東京都の職員さんに聞きました。
「戦後の道路計画なんて一切ないよ。後藤さんの時代に力ずくで議決決済をとった後、
政争のため棚上げになった道路計画を、今でも少しずつ作ってるだけだよ」
つまり、、
たった4ヶ月の間に当時の政権をバックに強行策として『震災復興計画』の議決をとってしまったのです。
その折に、有力野党とも裏取引をしてしまい保守党側からも絶縁されてしまったとの話もあるようです。
しかし、渾身の『震災復興計画』は議決されたため、
将来実行しなければならない計画案として残ってしまったようです。
今では多少の手狭感のある東京都の大街道ですが、当時にそこまでの幅員が必要だったのか?
当時誰の賛同も得られず、政界の表舞台が去らなければならなかったのも理解ができます。
ただ、100年近く経った現代、後藤新平さんは凄い方だったと私は思います。
ちなみにですが建築基準法が出来て、道路の最低幅員(4m)が決まったのは
これから30年以上後の事です。
最後までお読みいただきありがとうございました!